昭和48年02月21日 朝の御理解



 御理解 第2節
 「先の世までも持ってゆかれ、子孫までも残るものは神徳じゃ。神徳は、信心すればだれでも受けることができる。みてるということがない。」

 おかげを受けると申しますけれども、おかげを受ける。人間は欲なものですから、頂ければ限りなく頂きたいです。けれども例えば病気の者が、健康のおかげを頂く。人間関係で苦しむとか、経済的な面で苦しむと言うても、そこの所が大体おかげを頂いたり、経済的にも恵まれたりするようになりますと、限りなく頂きたいのですけれども、やはり、やれやれと言うものが出てくるです。
 おかげは。もう財産も満てるこの位出来たからとか、おかげで健康になったからとか、と言う様な事で、みてる事がないと言われる程しのおかげ。所謂お徳ですね。是は限りがないですし、お徳を受けていくと言う事は、もう腰掛けると言う事がないです。お徳が身についてきたら、もう益々有難うなり、益々嬉しゅうなり、益々修行がしとうてたまらなくなってくるです。
 それが私はお徳を身に受けて行く人達の、実際の姿であると思う。けれどもおかげを受けると言うけども、おかげを受けると言うのはね、必ず腰掛けます。やれやれもう健康をとり戻した。やれやれ、もうこの位貯まれば、もう生活に不安なことはない。と言ったようなものになるとですね。ですから勿論そういうおかげを前提とするのが、一般通例ですけれども。どうしてもお徳を受けて行くという事、限りなくお徳を受けて行くと言う事の信心に、開眼しなければいけません。



 いわゆる目を覚まさなければいけません。いわゆる、寝ぼけた信心ではいけない。昨日、お道の新聞を見せて頂いておりましたら、嬉野教会の井上という先生が、書いておられました。寝ぼけておると、良い事、悪い事の見極めがつかんようになると、寝ぼけておるのですから。それも 私は、本当に、その事を痛感したと。杷木の教会が親教会なんです。それで、何か信徒会の時に、福引きがあった。そん時に、福引きを引いた、それが、「寝ぼけ信心」と言うことじゃった。
 だから、賞品に洗面器を頂かれた。それで皆んなも笑い自分も笑ったけれども、それこそハッとするようなものを感じて、確かに自分は寝ぼけ信心であったと、気が付いたといったような事を書いておられます。どんなにお話を頂いとっても、寝ぼけながらお話を頂いとったんではだから本当に、それが開眼という事になってこないと思うです。
 昨日、やはり、その新聞を見せて頂いておりましたら、今、東京の初代東京教会長であらせられました、畑徳三郎という先生の、お伝記風のものが時々載ってくるんです。いわゆる、教祖様の直信、佐藤、近藤、白神先生あたりの様に、大変お徳を受けられた方なんです。東京に、初めて布教に出られた。いわゆる、東京教会の初代教会長であります。そのお言葉に、これは、いつも御結界に、書いて貼ってあったという事です。「無体にせわしくしておると、寿命が縮まる。信仰しておかげを頂くと、嬉しゅうてたまらぬようになるぞ」と書いてあったという事です。
 無体に、もう忙しゅうして忙しゅうして、お参りする暇もなかごとなってくる。確かに、寿命が縮まるでしょうね。次には、こういう事が書いてある。「心配が増したり、物事に苦をやむようになったら、信心が落ちた証拠じゃ」と云っておられます。もう正しくその通りです。心配が増したり、信心が強く出来ておる時にはね、普通で心配せねばおられぬ事が、全然心配でなくなってくるです。
 物事を、いっちょ、いっちょ苦になる。物事に苦を病むようになったら、信心が落ちた証拠じゃと思うて、シャンとせろという意味でしょう。いわゆる心がイライラしだしてくる訳です。それは信心の落ちた証拠。こゝ迄のところを、大体、信心を高めておきますとね、そこからが、お徳を頂かせて貰うと言うか、お徳の世界に入る、まぁ入り口ですよ。こういう事が分かるという事は。
 昨日は、久留米の古賀さんの所で、神様をお祭りなさいました。それこそ、お広前いっぱい、桧の香が漂うようなお広前に、見事な、実に品の良い、御神殿をしつらえられまして。それで、菊栄会の方達が、御用奉仕させて頂いて、昨日、夕方から、奉斎式であり、又、謝恩祭がとり行われました。もう実に有難いお祭りでした。ご承知のように、奥さんが、あんなに、体がずっとお悪い。だから、せめてお祭りを仕えさせて頂く。その当日だけ位、元気で御用が出来るようにと言うて、お願いがしてあり、又、昨日の朝も、そのお届けがしてありましたにもかゝわらず、昨日は、大変体がひどくて、とうとう休みついてしまわれた。
 それでも、もう親先生が見える時刻だからと言うて、起きて、着物着替えたりしておられました。それで、他に、沢山、御用を頂かれる方達が、勝手の方にも、ご親戚やらからも、みんな見えてあっておりましたから。それは、奥さんがおられなくても良かったろうけれども。肝心要の古賀さん達夫婦が、それではどうにも出来ない。けれどもどうにも仕方がない事です。苦しいのですから。
 ところがです、昨日は、大変あちらでゆっくりさせて頂きまして、大体、五時位からのお祭りでしたが、六時位になったでしょうか実際は。ですから、随分永い時間、あちらにおらして頂いた訳でございますけれども。帰るちょっと寸前ぐらいに、夫婦で、私の所にやって見えてから、先生、今日は本当に広大なおかげを頂きました。お祭りが仕えられて、段々段々、お祭りが進むに従ってです。それこそ、体のことは忘れたように、元気にならせて頂いたと言うお届けでした。
 昨夜も、お礼に出て見えましたが、今朝からも夫婦で、出て見えておるところを見ると、やはり、おかげを頂いておられるという事です。それで私が、今日のね、このお祭りを奉仕させて頂いて、お祭りが始まって、いよいよ開扉という時に、昨日は光橋先生と二人でおかげを頂いた。開扉をされよる時に、米袋のそれが、ぱしゃっと落ててから、中から、お米がこぼれてしまった。
 少しの事だったでしょうから、それをこうしとりましたけれども、こんなに気持の悪い事はないですよね。命の根と迄言われる、お米と言うのは。命の根です。それを霊的に命の根という事は、心という事だ。だからお米という事は、心という事と同じ事。それで私が、お祭りが済んでから、文男先生に話した事を、二人に聞いて頂いたんです。
 あれはね、神様が、どういう事を、いわば、お知らせ下さったかと言うとね。あれは大体、洗い米でなからにゃいかん。洗うた上にも洗うて、ちゃんと、もう一日、二日前から洗うておいて、それを米袋に入れる訳です。それを、昨日が、それが出来なかったもんですから、「文男さん、あんたヾん御用させて頂いてから、米袋の中を、米洗わんなりに入れとったじゃろう」と、私が申しましたら、「はぁ、その通りです」ち言う。だから、お米を洗うという事は、だから、心を洗うという事なんですよと。だから、そういうお気付を頂いておるのだから、貴方方夫婦が、信心とは、とにかく、心を清める事なのですから、その、お知らせ。
 只、おかげを受ける、奇跡的なおかげを受けると、いう事ではなくて、信心と言うのは、わが心が神に向うという事は、心を清めた上にも、清めて行かなければ。一辺清めたから、それで良いと言うことじゃない、毎日毎日が、やっぱり 汚れていくのですから。それを、毎日毎日、お詫びをしたり、清めたりする事に焦点を置いて、信心させて頂く。それが信心なんだから。その事を、実際をもって、神様がお知らせ下さったんですから。実は、あの事は、大変有難い事だったですよと言うて、話した事でした。光橋先生が不調法してから、こぼしたというのじゃない。と言うて、昨日、自分でも覚えませんけれども、短冊に書いてあげとるとが、短冊掛けに掛けてあった。
 「眞心とは神様に喜んで頂く心」という事であった。だから私は眞心だと私は一生懸命、眞心だと言うてもです、神様が喜んで下さらなかったら、それは眞心じゃないんだと。私は一生懸命に親孝行しておると言うつもりであってつもりでも、親が喜ばなかったらそれは親孝行じゃない。親孝行と言うのは、親の心が分からなければ、神様に喜んで頂く為には、神様の心が分からなければ、それに添い奉る事が出来ないでしょうが。
 だから、どうしても、親孝行がしたいなら、親の心が分からなけりゃならん。眞心をいっぱいに表したいならば、まずは神様の心が分からなければ、眞心は出せるものではありません。神様が喜んで下さる心が眞心だ。それに、神様が、背中が痒かと言いよりなさるとに、前の方ども掻いてやった分じゃ、却って歯痒い思いをさせる。そして、自分な、つう一杯の眞心をこめたり、眞心で奉仕をしたりしておるつもりでおったのでは、おかげにならんと言うて、話した事です。
 昨日、久富勇さんが、お夢を頂いておられる。ある方が、髭ぼうぼうと生えて、もうそれも、痩せきれてござるが、村内の方達と一緒に、何かをしておられると言うこと。それで、勇さんが、「私がごたる病気でも、こげん助かったっちゃけん、あんたが助からんはずはなか」と言うて話された。
 ところがね、「いゝえ、私には、こゝに、こげなコブが出来とる」と言うて、乳の丁度真上に、コブが出来とるところじゃった。それで、髭ぼうぼうで、痩せ細ってある。そしたら誰かがです。もうこの人は助からん。今度は難しかろうと言いよるところじった。これがおかげに腰掛け、おかげに留まっておるという事です。村内の人達ということは、信心の無い人達と、考え方が同じだという事。
 いわゆる、せわしゅうて、せわしゅうて、という事になってくる訳です。せわしければ、せわしい程神様へ、いうならお礼参拝でも出来なきゃならない。これがおかげではなくて、お徳を受けると、今日の御理解でね、お徳を受けていっておる楽しみとか、喜びと言うのであったら、いよいよ神様に接近して行かなければならない筈なんです。乳の上にコブが出来とる。どういう事と思いますか。
 乳という事は、親という意味です。コブという事は喜ぶという事です。もう親先生が言いなさる事は、いつも毎日同じ事、もう研け改まれち言うこつばっかりじゃから。成程その通りです。いわゆるもう乳より上にコブがある、信心があるちいう事です。親よりももうそげな事は知っとるという事です。信心を進めて行く。いわゆるお徳を受けて行く楽しみがないと、いつの間にか、そういう事になってるです。乳よりも上にコブがある。日々、親先生の御理解を頂いて、その有難さ、その尊さという事を、分かっていく喜びというなら、乳の下に喜びがあるとじゃなからにゃいかんのじゃないでしょうか。
 これも昨日、久留米の佐田さんが頂いておられます。ご本を勉強しておる。見たところ、これは漫画じゃろうかと思うて開いたところが、いっぱい漢字で書いてある。細かい字が、いっぱい書いてある、大変難しい本であった。そこを開けて読んでおるところを頂いた。信心の徳を受けて、初めの間は漫画とか、面白い挿絵がついておるとか、というのでなからなければ、なかなか、本を読みません。絵本やら、普通の本やら分からないように、例えば、小学校の本なんかは、そうでしょうが。
 それが、段々段々、それこそ難しゅうて、字引を引かなければ読めない程しのものが、読めれるようになる。それも学徳が身についていく楽しみというものが、もう字引を引きながらでも読まにゃおられないという事になってくるような信心になるという事が、お徳を受けて行く信心。もう限りがないのです。充てるという事がないと仰る。そういうおかげを頂いていかなければ。
 眞心いっぱい、それは、日々さらな信心をさせて貰うて、日々、親神様の思いを分からせて貰うて、その思いを、いよいよ、体得させて頂こうとする、信心からでなければ、お徳は受けられないし、又は、お徳を受けて行く喜び、楽しみというものもありません。こういう難しい本が読みこなせるようになったと。そういう、私は過程に於いてです、成程、これがお徳を受けていきよる証拠であろうか、こういう難儀な、問題を、眼の前にしながらでも、心配がないという程しのおかげ。ところが、心配が増したり、物事に苦を病むようになったら、信心が落ちた証拠じゃと、悟らせて貰うて、一段と、信心を進めて行かなければならない。
 無体にせわしくしておると、寿命が縮まる、縮まりよるとは自分じゃ分らん。こげな残念な事はないです。忙しい忙しいと言うて、無体にせわしくなると、寿命が縮まる。信仰しておかげを頂くと、嬉しゅうてたまらぬようになる。その嬉しゅうてたまらぬようになる、その心がいよいよ、又より良い信心を頂かして頂こうという事になる。それには、どうでも、おかげを土台とした信心ではなくてです。信心を土台にした信心にならなきゃいかん。いよいよ、最近、言われる、大改まりの信心をさせて貰うて、わが心が神に向うていくという事が、信心だという事にならなければです。
 これは、絶対、人間の十人が十人です、おかげを頂いたら、それで、やれやれと言う心が、必ず起るです。だから、そのおかげの信心からです、神徳を受けて行く、信心に変わらせて頂かないとです、いわゆる、信心の、本当の味わいというもの、又、神様が、願って下さっておる、信心しておかげを受けてくれよという事は、お徳を受けて信心をしてくれよ。それは、あの世にも持って行け、子孫にも残る程しのものにして行けと言う、神様のそれが願いなのです。
 お徳を受けてゆくという信心になったら、それこそ、貧乏ゆるぎもする程じゃないです。けれども、只、目先のおかげという事から、離れない信心になりますと、目先のことが、ちょっと楽になると、もう、やれやれが出て、そして、ちょっとした事が心配になったり、ちょっとした物事で、もう苦に病むようになってくる。そういう時に、気付かせて頂いて、あぁこれは信心が落ちた証拠じゃと思うて。お互い、そこから、良い信心、本当な信心を、いわゆる本当な眞心を目指して、神様に喜んで頂くような信心をさせて頂かにゃいけんと思うですね。
   どうぞ。